下手の道具立て

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...... 2014年06月11日 の日記 ......
■ そして彼ら自身また   [ NO. 2014061101-1 ]
そして彼ら自身また、少くともその後裔は、陰陽師・ヒジリ・梓神子・傀儡師・猿引・番非人等として知られ、鎧作りの工業家などもこれから出ているらしく、おそらく夙・エタの仲間となったものもまたその中にはあったらしい。否、夙・エタの徒の中にも、かつては彼らと同じ流れから出て、中ごろ袂を分かったものもあったであろう。これらのことは便宜上別に、「大和における唱門師の研究」と題して、次号に掲載する予定であるから、説明はすべてそれに譲ることとにする。
これらのことから推測して試みに想像を逞しゅうするならば、京都の北畠・桜町の声聞師も、ただに一定の日に禁裏へ出て千秋万歳や曲舞を奏するばかりでなく、やはり禁廷に付属して、お庭のお掃除や、市内の警固などを担当し、兼ねて種々の雑職に従事していたのではなかろうか。徳川時代にはお庭掃除は小法師と称して、もとは丹波の山国から出ておったが、中頃は三条余部村のエタ六人と、寺町今出川下ル町及び上立売下ル瓢箪図子から各一人、都合八人でこれを奉仕し、享保十二年以後は大和丹波市外六人のエタ村から出役し、さらに後には京都蓮台野からもこれを勤めておった。丹波山国は戦国時代における皇室御料の最後のものとして遺った庄園であったから、一時そこから勤仕したのであろうが、その以前においてそんな遠方のものを煩わす必要はなかりそうに思われる。後の小法師は箒と緒太(草履)とを献上する例であったが、これはもと河原者の習慣であったらしい。『言継卿記』に、河原者が年始に来て緒太と箒とを呈したことがみえている。
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